· 

日本国紀の騒動に思う

百田尚樹著、『日本国紀』(幻冬舎)がTwitterなどで盛り上がっている。

 

個人的には、百田氏の思想信条うんぬんよりも、SFC(慶應大学湘南藤沢キャンパスの略称。文学部がある日吉・三田とは4年間別キャンパス)で同期だった久野潤氏が40歳に満たず、歴史学において国立大学が主流派を占める中で、私立大学の講師でありながら、メディアの寵児であり安倍晋三首相に取り上げられる本の監修をされたとのことで、同期の出世を喜ぶばかりである。Wikipediaへのリンクだけでは当人は本意ではないだろうから、氏本人が投稿されているTwitterFacebookはリンクを参照されたい。

 

さて、『日本国紀』に話を戻して、この本、どうにも国民の分断をもたらしている気がしてならない。浅学非才の身にして、著者が語る歴史認識の正当性を検証する能力はないし、この本をどのように書店が売るべきかについては、多分に個々人の書店の思い入れ(感情)といった、言を尽くしても平行線を辿るであろう論点もある。

 

ここでは、学問的な視点や書店はいかにあるべきかといった議論から離れ、出版社である幻冬舎が公表している情報を基に、ひとつの事実を提示したい。

 

『日本国紀』は歴史学の本ではないのは明らか

 

「百田氏の歴史認識は誤り、歴史を知らない、歴史を歪める、歴史修正主義である」等々...

良識派を自認しているのであろう『日本国紀』を攻撃している方々には、この本の質が学問・学術書の域に達していないことに対して、怒り・批判の声を発せられていることが多々ある(コピペ問題については他の方々に譲りたい)。

 

だが、冷静になって欲しい。そもそも『日本国紀』は学術書・歴史学の書として出版されていない。

 

出版した幻冬舎サイトの『日本国紀』のページを確認すると、Cコード:0095とある。Cコードとは、日本図書コードの分類コードであり、0095とは、一般・単行本・日本文学、評論、随筆、その他を指す。幻冬舎サイトのカテゴリーこそ歴史であるものの、歴史学や学術書の類とは言っておらず、書店の棚の配列等に利用されるより普遍性の高い日本図書コードは『日本国紀』はあくまでも、「日本文学、評論、随筆、その他である(因みに、「日本歴史」であれば、下2桁は21になる)。

 

幻冬舎のサイトに堂々と公表されている以上、著者も監修者も、然るべき地位にありながらこの本を誉めそやす人も当然、歴史学の本としては出版されていないことを承知しているはずである。

 

「歴史の本としての質が低い」という批判は批判にならない。売り手側の幻冬舎や著者を含めた関係者が「日本歴史」として認識していないので、「日本歴史」の学術書を基準に厳しいことを言われても、痛くも痒くもないだろう。そもそもがそのレベルの本ではないことを承知して、売っているのであるから。

 

批判よりも、出版社側が「日本歴史」ではないと言っているのに、「日本歴史」と勘違いしている方々に対する注意喚起をした方が良い。「素晴らしい評論でした」、「著者の感性が感じられた随筆です」、「流石、一流のストーリーテラーです」は幻冬舎も著者も望むところであろうが、「素晴らしい日本の歴史書です」や「日本の歴史に対する理解が深まりました」は幻冬舎も著者も望んでいないのではないだろうか。過大評価というか別次元での評価は、著者にとって有難迷惑になるかもしれないから、ファンの方は気をつけた方が良い。

 

大河ドラマや歴史小説で歴史学を学んだ気になってはいけないのと同じである。「歴史に興味が出ました。ファクトチェックしたいです!」。こういう意見こそ、出版側だけではなく学会関係者にも望ましい流れだと思う。

 

繰り返すが、「日本歴史」として売っていないのに、その質を問うのは著者に酷である。

 

むろん、記紀を模して、『日本国紀』と銘打つのはそれなりの覚悟があってのことを察せられる。このような畏れ多い字の使い方をよくぞしたと思う。世が世なら罰せられていただろう。

 

つまりこの本はそういう類の本だ。目くじらを立てるほどではない。むしろ、出版社の公表情報さえ確認せず、書籍名を妄信している方は情報をクロスチェックする一手間を惜しむ方なのであろう。そう考えると、この国の政治が斯様な状況にある一旦が理解できる。